大事なことの最近のブログ記事

 


それは、暑い夏の日でした。

寺西君が、大学を卒業して就職した年、
はじめての帰省のことでした。

大阪の下町の高校で一緒に青春時代を過ごし、
彼は、いつも陸上部のエースでした。


大学を出て、東京で就職し、
どんだけ帰阪して、実家の人に会えるのを
楽しみにしていたことでしょう。

彼は夏休みをとり、キャンセル待ちで
18時00分羽田発、18時56分伊丹着の飛行機に乗りました。

 

  彼の分まで、命が尽きるまで生きる。

 

乗員乗客524名のうち520名、生存者は4名。
『日航機墜落事故』『日航ジャンボ機墜落事故』
テレビに映し出された事故にあわれた方の名前の中に
彼の名前があった時は、目を疑いました。


日本航空JAL123便 1985年8月12日午後6時56分
御巣鷹の尾根の映像をみると、
彼のことを思い出します。


あの混乱の32分(事故発生から墜落までの時間)の中で、
彼は、何を見て何を感じ何を残し何を伝えようと
思ったのでしょうか?


  もし、私なら?
  もし、あなたなら?

 

 

 読んで頂けたら、クリックお願いしますm(__)m

 

赤塚不二夫さん葬儀でのタモリさんの弔辞をニュースで読みました。

 

深い内容でした。

人と人が、出会い、生きていく。

素晴らしい男と男の弔辞です。

良かったら、ご一読下さい。

 

 

 

 「8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。

  【写真で見る】 インタビュー中にウナギイヌを描く赤塚さん

 10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは、今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私をみている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。

 終わって私のとこにやってきたあなたは『君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ』と、こういいました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。

 しばらくは毎日新宿のひとみ寿司というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。

 赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。

 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔ははるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては『このやろう逝きやがった』とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。

 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。

 いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。

 あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。

 私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。平成20年8月7日、森田一義」

心から、御冥福をお祈りいたします。

 

 

 読んで頂けたら、クリックお願いしますm(__)m

 昨日は、ご近所にできていた居酒屋さんに、

友人の電気屋さんと一緒にでかけました。

そのお店は、ご夫婦とアルバイトさん1名でさせている小さなお店です。

 

営業時間は、夜11時までで居酒屋さんとしては、

比較的早くに終うお店でした。

 

私達は、10時に入り、あと1時間もあれば

話もお食事も楽しめると考えていました。

 

10時30分を過ぎても

11時を過ぎても

まだまだお客さんが、その居酒屋さんを訪れます。

 

アルバイトさんは、もう帰って経営者のご夫婦だけになっても

いつも笑顔でした。

 

商売をしていたら、こんな当たり前ですが、

店側の都合で考えるのではなく

お客様のおもてなしを考える基本を再認識いたしました。

 

これって、『ディズニーランドのお子様ランチ』のお話と通じる部分がありますよね。

 

   ↓↓↓


  
東京ディズニーランドの中にあるレストランでのお話。

若い夫婦が二人でそのレストランに入りました。
店員はその夫婦を二人がけのテーブルに案内し、
メニューを渡しました。

するとその夫婦はメニューを見ずに

 「お子様ランチを2つ下さい。」

とオーダーしたのです。
店員は驚きました。

なぜなら、ディズニーランドの規則で、
お子様ランチを提供できるのは
9歳未満と決まっているからです。

店員は、

 「お客様、誠に申し訳ございませんが、
  お子様ランチは9歳未満のお子様までと
  決まっておりますので、
  ご注文はいただけないのですが...」

と丁重に断りました。
すると、その夫婦はとても悲しそうな顔をしたので、
店員は事情を聞いてみました。

 「実は...」

と奥さんの方が話し始めました。

 「今日は、亡くなった私の娘の誕生日なんです。
  私の体が弱かったせいで、娘は最初の誕生日を迎えることも
  出来ませんでした。子供がおなかの中にいる時に主人と

  "3人でこのレストランでお子様ランチを食べようね"

  って言っていたんですが、それも果たせませんでした。
  子どもを亡くしてから、しばらくは何もする気力もなく、
  最近やっと落ち着いて、亡き娘にディズニーランドを見せて
  三人で食事をしようと思ったものですから...」

店員は話を聞き終えた後、

 「かしこまりました」

と答えました。そして、その夫婦を二人掛けのテーブルから、
四人掛けの広いテーブルに案内しました。

さらに、

 「お子様はこちらに」

と、夫婦の間に子供用のイスを用意しました。
やがてそのテーブルには、お子様ランチが3つ運ばれてきました。
その店員は笑顔でこう言いました。

 「ご家族で、ごゆっくりお過ごし下さい」


この夫婦から後日届いた感謝状にはこう書かれていました。

 「お子様ランチを食べながら、涙が止まりませんでした。
  まるで娘が生きているように、家族の団らんを味わいました。
  こんな体験をさせて頂くとは、夢にも思っていませんでした。
  もう、涙を拭いて、生きていきます。

  また来年も再来年も、娘を連れてディズニーランドに行きます。
  そしてきっと、この子の妹か弟かを連れて行きます。」


さて、この店員の行動は明らかに規則違反です。

しかし、この行動について上司からお咎めを受けることは
ありませんでした。なぜなら、この店員はディズニーランドが
最も重要視しているルールに従って行動したからです。

それはお客さんに夢と感動を与えること。

 

 

 

 

読んで頂けたら、クリックお願いしますm(__)m

みなさん、人生の目的はと聞かれたら、

即答できますか?

 

 私は、世界中の人を幸せにすることです。

 素直な心を持ち、目の前におきることすべてに感謝し、

 まっすぐ生きる。そして私の成功を私に関わるすべての人に

 私の成功を分かち合い、幸せにする。

 

そして、私自身を一言で言い合わすと、

約束を守る男です。

 

 明日も自分と大切な人のために、

 約束を守ります。

 

読んで頂けたら、クリックお願いしますm(__)m

店長の「みちばた」です。


まだ若い頃、ボランティアの方を見て
なんでボランティア活動をされているのか、
分からなかった。


大学を出て、営業の最前線で仕事をしていた私は
営業で売上を上げるのが何より楽しかった。
同期の人間、先輩同僚より売上を上げるのがすごく快感だった。
でも何のために、なぜ売上を上げたいという想いがなかった。


大学入るときもそうだった。
なんの目的もなく、就職に便利だという周りのすすめで
経済学部に入った。そして卒業して会社勤めをした。
そこには、たくさんの仲間や友達がいて毎日が楽しかった。
でも、なにかが足りなく、満たされないものがあった。


1995 01 17 AM5:46 私の人生を大きく変える出来事があった。
布団の中でまだ夢の中にいた時、
『ドドーン!』という今まだ感じたことのない大きな揺れを感じる。
・・・阪神大震災。


私の大好きな街、神戸。
ポートピア、中華街、元町、六甲、三宮、岡本、芦屋。
家内とデートした街、ドライブした道路、仲間と良く遊んだ海。

私の大好きな街は、悲しみに包まれた。


復旧のため、神戸に行きたくても
電車が動かず、大阪から船で神戸まで行った。
目を覆いたくなるような現実。
たくさんの壊れた家、崩れた道路、電気のない生活。
途切れたライフライン。


私がすぐ出来たのは、献血とお取引先の現場の復旧だけだった。
この震災で亡くなられた方は、6,434名
行方不明の方 3名 負傷者された方43,792名でした。

私は、心に誓った。
もっと強くなって、もっと優しくなって、人のためになりたい。

他人が、自分をどう思っても関係ない。
困っている人がいたら、すぐに手を差し伸べられる人になりたい。


人は、一人では生きていけない。
もっと人にためになれる人になりたい!!


  ONE FOR ALL,ALL FOR ONE
  一人はみんなのために、みんなは一人のために
  

今、私たちは豊かになったでも
生活が豊かになっても、心が豊かでなけばダメだ。
あきらめなけば、夢は叶う。

その阪神大震災から、
月日が流れ私は、布団で人を幸せにするんだという企業理念に基づき。
先代の社長を後を継ぎ、インターネットを通じて世界中に『快適な眠り』という幸せを
お届けしています。

新潟県中越地震が起きたときも
たくさんのお客様と協力し、微力ながら布団、毛布、枕等で
被災地の方へお手伝いができました。


もっともっと人の役に立つ企業に、人になりたいと心から思い、
私達、株式会社ミチバタ・ジャパン・リミテッドは、
日本赤十字社に協力していきたいと思います。

2008年8月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            


>>約束を守る男からの手紙を読む

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち大事なことカテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリは地球に優しくです。

次のカテゴリは奇跡の子供たちです。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

最近のコメント

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1

Techonrati

Technorati search

» リンクしているブログ